拝啓
先日は失禮いたしました。あれから佐々木君に御會ひになりましたか。僕の方へはあれきりさつぱり訪ねて來ません。尤も訪ねて來る譯にも行かないでせうが、僕も内々どうして居るかと心配して居ります。
きつと佐々木君は僕等に對して怒つて居るのでせう。此の間會つた時にも、あの話はどうなつたんだ。まだ姉さんに話してくれないのか。もう二た月にもなるのだから、機會がないと云ふ譯はあるまい。默つて棄てゝ置かれては、半殺しにされて居るやうで落ち着かないで困る。と云つて、例の調子で性急に追究するのです。定めてあなたにも不平を洩らした事だらうと思ひます。
しかし、僕の方でも決して投げやりにしてあるのではないのです。佐々木君にはまだ姉に話さないと云つて居ますが、實はもう疾とうに話してあるのです。さうして大體姉の意向も聞いて居るのです。けれども其の意向が佐々木君の爲めに決して芳ばしいものでない以上、それを無造作に返事する譯には行かないぢやありませんか。佐々木君なら家柄と云ひ人物と云ひ、決して僕の方に不足はない。それは僕にしろ母にしろ、皆さう思つて居るのです。正直のところ當人さへ承知なら直ぐに纏まる話なのです。ところが當人の姉が、田舎は嫌だと云ふのですから、どうも仕方がありません。僕からは何とも挨拶のしやうがなく、いつまで經つても、姉に話す機會がないといふ一點張りで、佐々木君に答へる外はありません。僕は事實を吿げるのが辛いので、謎を讀んで貰はうとして居るのです。結婚の話を斷る場合には、さういふ風にするのが當り前ぢやありませんか。東京の人なら、その謎が分らない筈はありませんが、佐々木君にしたつてもいゝ加減に氣が付いてくれてもよささうなものです。嫌なら嫌でハツキリと答へてくれろと、佐々木君は云ひます。ですが、正直に打ち明けたなら、佐々木君のやうな人は、きつとこれきり僕の所へ來なくなるだらうと思ひます。僕はこんな事で友逹を一人なくなすのが嫌ですから、それでいろ〳〵案じて居るのです。
就いては、あなたから何とか佐々木君の誤解を解いて下さる譯には行きますまいか。僕の方の眞意を婉曲に傳へて下すつて、今後同君と僕等との間に、不愉快な感情が殘らないやうにして頂ければ非常に結構です。さうして、成らう事ならば、佐々木君と御一緖に僕の所へ遊びに來て下さるやうに願ひます。どうぞ何分御賴み申します。
かう云ふ淺川の手紙が、或る日橘の許へ屆いたのは、もう花見の時候が過ぎて四月が暮れようとする頃であつた。同時に彼の机の上には、春の休暇に近縣地方へ旅立つて以來、未だに學校へ出て來ない佐々木からも、頻々と繪葉書だの書狀だのが寄せられて居た。
三月二十七日、夜來の豪雨を冐して東京出發。只今無事甲府着。此れより昇仙峽に遊び、鰍澤に出でて富士川の奔湍ほんたんを下るつもり。
ぬばたまの笹子の闇のをたけびに我が世の末を戰き思ふ
委細は後便にゆづる。
と云ふのが第一便である。それから又四五日過ぎて、こんなのが來てゐる。
たとへば我は地に傷ける鳩の、鮮血のしたゝる翼を搏うつて果しもなき天涯てんがいに翔あまがけるが如し。
たゞ息の續く限り、力の許す限り、再び大地に落ちるまでは飛び行かんとこそ思へ。きのふは龍華寺に詣でゝ高山樗牛の墓を訪ひ、唯今三島に着、此れより箱根の舊道を踏破して小田原に出づる豫定に御座候。同地より汽船に投じて伊豆の下田に參り、更に大島に遊ばんかと存じ居り候。
其の明くる日には直ぐ追ひかけて、
箱根本宿もとじゆくより蘆の湖畔に沿うて姥子の湯に參り、大涌谷、地獄谷を經て仙石原に到着、やう〳〵脚絆きやはん草鞋わらぢを脫いで唯今硫黃の溫泉に漬かり申し候。明日あすは乙女峠を登りて富士の裾野を俯瞰ふかんせばやと存じ候。同宿に夫婦連れの旅藝人あり、妻なる女の二十前後なるが、いつの間にか我と懇意になり、いろ〳〵と愛想よく話しかけるも、旅情を慰むること夥し。夫は盲人の淨瑠璃語りなり。
と、書いて來て居る。それから最後の郵便は伊豆の伊東から出したものらしく、原稿用紙へ二三枚ほど細々こま〴〵と認めてあつた。
もはや四月の下旬に相成り、學校もそろ〳〵始まつたらうと思ひますが、私はまだ故郷へも東京へも歸る氣にはなれません。何だかあなた方の顏を見るのが極りが惡いやうな氣がします。折角旅に出て忘れかけた悲しい感情が、東京へ行けば再び想ひ出されはせぬかと、それが恐しさにかうして未だにうろついて居るのです。一月に近い旅行の間に、私はさまざまの事を覺えました。どうにでもなれと云ふやうな心地になつて、通りすがりの宿場々々の情なさけを賣る女共に身を任せる事をさへ、厭ひませんでした。―――あゝ、何といふ淺ましい我になつたのでせう。―――いつそこのまゝ旅の空で野たれ死にしてしまつた方がいゝくらゐです。
この手紙で見ると、もう橘の手を煩はすまでもなく、佐々木はすつかり絕望の淵に沈んでゐるらしかつた。さうして墮落と廢頽とが、橘ばかりでなく、佐々木の身の上にも附き纏つて來るやうであつた。
こんな事を考へながら、ぼんやりと寮の中庭を步いてゐると、
「どうぢや橘さん、今夜あたり、また此の間の所へ行かうかな。」
かう云つて、不意に山口が後うしろから彼の肩を叩いた。
「今に己逹は皆みんな山口のやうになつてしまふんだ。失戀した者の運命は誰も彼も同じ事だ。」
ふと、さう思つて、橘は默念もくねんとして相手の顏を視詰めて居た。